モスグリーンに設定されたきれいな鳥の一生。


 「言葉で言葉を超える事はできるのか?」

 というコピーを帯びた本が売っていて、それは僕の好きな思想家が関わった本なのでしばらくは何の疑問も抱かなかったのですが、後になってふと思った。

 「言葉を超えない言葉なんて果してこの世界に存在しているんだろうか?」

 僕がときどき相談相手になってもらう思想家の先生は「絵画には言語では説明しきれないものがあるがそれが何を説明しているのかということを言語で説明する」という難行の実践に頭を悩ませていらっしゃいます。ややすればこれは自己矛盾に陥ったテーゼだとも言えるけれど、僕はこれを追求することが不毛だとは全く思わない。その行いの内には新しい言葉と意味が生み出されると思う。言葉の世界はAでないならAでない、と断言して終われるものではないと思う。AでないならAでない、と断言する行為全体と、AでないけれどAだとしたら、と思考する行為全体が初めて意味を形成するような気がするのです。

 そのスタンスが一番正しいと思うので、言葉というものの定義を曖昧にしたまま話を進めますが、僕は全ての言葉はそれを誰かが発した時点で、あるいは耳にした時点で、言葉を超えた付加的なものを身に纏うと思うのです。
 そうして僕らは言葉という「記号」を常に「象徴」に変えながら、付加された部分を読み取ったり読み違えたりしてコミュニケーションをするのだと思う。

 ホームズは言った。
 「どうしてあの夜犬が鳴かなかったのか分かるかい、ワトスン君。みんな何が起きたのかということばかりに注目して何が起きなかったのかということには注意を払わない。でも今重要なのは何が起きたかではなく何が起こらなかったのかということなのだよ」

 昨日彼女が言わなかった言葉を僕は考える。