台湾旅行記2:歴史と輪郭と現在

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「二十歳まで日本人でした」と彼女は言った。70年という長い時間が経過して、20歳の女の子は90歳を過ぎたおばあさんになり、そして僕の隣に座って食堂の説明をしてくれている。70年という時間の重みを忘れさせる程、日本語は流暢だった。「向こうも一緒に見ますか」と尋ねて頂いて、店内を一回りした。落ち着いていて小柄で、老人だけが持つことのできる独特の強靭さを感じる。彼女は始終笑顔できれいだった。

 僕はそわそわとして落ち着かない気分になった。二十歳まで日本人だったという台湾人のおばあさんを目の前にして、どのように振る舞い何の話をすれば良いのか良く分からなかった。聞きたいことはたくさんあったけれど、それらを聞いていいのかどうかも良く分からない。
 歴史を知ることは難しい。子供の頃は素直に歴史の本を読めば良いのだろうと思っていたけれど、大人になると全ての本にはバイアスが掛かっていて何も分からないと思う。特に歴史に関しては「Aであった」という主張と「Aではなかった」という主張が学術性の外側で一つの思想的な争いとして繰り広げられていて、利益争いのような側面も垣間見てしまう。中途半端な勉強では本当のことを知ることは難しい。かといって、一次資料を探したりして専門的に研究しようとは思っていない。
 だから、もう面倒になって、年表のようなざっくりとした構図だけを知っていれば、もう後はいいや、と思いたくなる。だいたい、過去には僕は居なかったじゃないか、過去は過去であり、今は今だ、と思いたくなる。
 けれど、このそわそわする感じは、僕には関係のなかったはずの70年以上前の日本がやはり僕にも関係のあることだと思い知らせてくれた。過去は今へと繋がっていて、それは当然のことなのだが、面倒なので目を閉じていたのだ。
 
 このおばあさんに会ったのは、今回の旅で最後に訪ねた街、高雄でのことだ。
 台北、台南、高雄の3都市を回って感じたのは、南へ行くほど「日本との過去」を強く感じるということだった。逆に、南へ行くほど日本人を見かけなくなる。台北ではたくさんの日本人観光客を見かけたが、台南では1人だけ、高雄では都市部中心地へ行っていないこともあって日本人らしき人を1人も見なかった。南へ行けば行くほど、現在の日本人は少なくなり、日本の過去が強く浮かんでくる。

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 日本人である、ということに関して、台南では少し不思議なことがあった。
 もしかすると気のせいかも知れないけれど、一度だけ僕達は「ヤーパン」と呼ばれたような気がする。
 僕は中国語がほとんど分からない。「こんにちは」とか「ありがとう」とか「これを下さい」とか、そういう旅行会話みたいなことも満足にできない。さらに台湾語となると全然分からない。(もっと付け加えると、昔中国語を勉強しようとしていた頃、シンガポール人の友達に「良太は中国語の発音終わってるから中国語は諦めた方がいい、何言ってるか全然分からない」と終止符を打たれたことがある。)
 だから本当に僕の聞き間違いである可能性も否定できないのだけれど、状況としては年配のおばさんが店の奥に向かって「なんか日本人が来たんだけど」という感じのことを言ったような感じのする場面で、彼女は「ヤーパン」と言った気がする。台湾語の会話の中で「ヤーパン」という聞き慣れた単語だけがフレッシュに耳に飛び込んできた。ヤーパンというのはJapanのオランダ語とかドイツ語とかの読みだ。日本を指す言葉には流石に反応してしまう。これが中国語で「リーベン」と言われていたら、ふーん、と思って終わりだっただろう。「ヤーパン」だったので違和感があった。 
 そのお店は、たぶん完全に地元の人が営業している地元の人の為のお店で、満席に近い店内(とは言っても半分外だけど)に入ると僕達は少し珍しそうに少しジロジロと見られた。「ヤーパン」の席に注文を取りに来たおじさんも数字以外の英語を理解しているのかどうか怪しい。だから、無論偏見ではあるが、このお店の人がオランダとかドイツと親交があるとは思えなかった。生まれてこの方ずーっとここに住んでいて、ずーっとこのお店をやっているという感じだった。
 なのにどうして「ヤーパン」なのだろう。やっぱりただの聞き間違いか。

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 翌日、僕達は「安平老街」というエリアまでバスで出掛けた。
 僕達が持っていた台湾のガイドブックには「バスはややこしいし、タクシーは安いからタクシーに乗りなさい」と書いてあったけれど、台南ではバスを多用して、お陰で街のことが少し分かった気がする。ちなみに台南には街の中を移動できる地下鉄のような電車はないので、公共交通機関はバスだけだ。日本と違って、バス停にいても、タクシーを拾う時のように手を上げて合図をしないと止まってくれない。実はこの日、安平老街の後に行った場所で、僕達はバス停にいたのにバスを逃した。兎に角どんどん歩いてみようかと、夕方で幾分暑さが和らいだのをいい事にかなり辺鄙なところまで行ったときだ。空き地と家しかなくて、ときどき遭遇するのはバイクと野良犬ばかり、暗くなって流石に心細くなって、もう歩くにもクタクタ、という時に見つけたバス停で「ルート変更のお知らせ」みたいな表示を読んでいたらバスが通り過ぎてしまった。次のバスは随分待たなくては来ないし、バス停の周囲には何もないし、こんなところでずっとバスを待ってなんていられないと僕達は渋々また歩く羽目になった。

 安平老街にバスが近づいて、なんとなくこの辺りのバス停で下りようかと降車ボタンを押して前の方へ移動すると、近くに座っていた中年夫婦のおばさんが「あれっ、ここで下りるの?どこ行くの?」と話掛けてきた。特にどこってわけでもないけれど観光地みたいだから来ました、と言うと「じゃあ、ここじゃなくてもっと先で、私達と一緒のところでおりましょう」と言って、運転手に何やら説明してくれた。
 おばさんとその夫と運転手はずっと楽しそうに話していて、ときどきおばさんが英語でこちらにも話を振ってくれて、なんだか分からないけれどワハハハと愛想笑いを浮かべながらさらに5,6分のバスライド。
「ここで、降りましょう」
 おばさん達が目的としていたバス停は、まさに観光地のど真ん中で、バスに乗っていたほとんどの人達は僕達と一緒にそこで降りた。日本の7月とか8月みたいな炎天下にものすごく沢山の人達が楽しそうに歩いている。おばさん達とはしばらく一緒に歩いて、お礼を言って別れた。「安平古堡には行ったほうがいいよ」ということだたので、安平古堡へ行ってみる。屋台のたくさん出ている通りではどうしてか韓国の細長いソフトクリームのお店を結構見かけた。あと、誰がこんなところで買うのか分からないけれど掃除機を売っている屋台とか。

 安平古堡は観光名所になっている史跡なわけだけど、予備知識を持たずに行った僕達は説明書きを読んでびっくりした。
 1624年にオランダがここにレンガ造りの城を建てて台湾を統治していて、1661年にはオランダは鄭成功に追い出される。鄭成功の時代が20年くらい続き、その間はこの建物も使用されていて、その後は廃墟と化した。さらに日本統治時代には、オランダ時代のものを破壊して日本式の宿舎に改築。
 つまり、その後台湾時代になってから補修などが行われたといっても、僕達が見ているものは基本的には「日本」が作った建物だった。

 台湾の東側などへ行けば、もっと話は違うのかもしれない。
 ただ、僕達が今回訪ねた台湾南部の観光地には尽く日本の影があった。
 史跡を訪ねなくても、日本の影は街の至る所で見える。ホテルでテレビを点けていると日本語が聞こえてくることもあるし、コンビニに入れば日本と同じものが日本語のパッケージに入ったまま売っている。くまモンとかフナッシーは至る所で見かける。ひらがなの「の」は僕達が英語のbyとかandみたいな前置詞を日常的に使うのと同じ感覚で普通に使われている。バスの路線図を眺めていると若いカップルが「大丈夫?」と日本語で話掛けて来てどのバスに乗ればいいのか教えてくれる。
 でも、それとこれとは別の話だ。
 かつて日本統治時代に作られた沢山のものが残っていて、それが観光地になっている。電車に乗っていて駅舎が懐かしいと思えばそれも日本統治時代に作られたものだった。僕の知らない古い日本がここにはあって、それらが突きつけてくる関係ないはずの懐かしさを前にしてしまうと、生まれる前の無関係なことだとはもう言えなかった。
 それから、日本統治時代のもっとずっと前のオランダ統治時代。昨日のヤーパンに関係あるのだろうか。まさか、それにしては時代が古すぎる。

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 少し話は逸れるのだが、京都から東京に出て来た時、街が「古い」と感じた。むろん表参道などに面した最新の商業地域は別として、ちょっと路地裏に入ったり、電車から外を眺めていたりすると「古い」と感じる。京都にはきっともっと古い建物が身近にあるのだけど、それらはもう所謂「古すぎて逆に新しい」ものだった。1200年前の平安時代に関してはもう新しいとか古いとかではなくて「何か別の世界」だし、そこまで行かなくても歴史ある何かは「歴史的な」というジャンルに括ってしまうことができる。
 東京には数十年前の建物がたくさんある。小津映画に出てくるオフィスビルみたいなのがたくさん残っている。それらは今と地続きな分、余計に古く見えて、さらに良く分からないノスタルジーを喚起する。
 
 台南はそういう懐かしい東京に似ていた。林百貨店というデパートに入ったときは自分がどこにいるのか分からなくなりそうだった。なぜならそこには日本としての歴史みたいなものが織り込まれていたからだ。
 林百貨店は1932年に山口県出身の実業家、林方一が作った。そして戦中には米軍の空爆も受けていて、敗戦とともに廃業。廃墟となっていたものを2010年から台南市が2億7000万円かけて修復。2014年に晴れて店舗として再開。内装は、「あの時代の洋館」そのままだ。僕はこういう建物を廃墟としてしか見たことがなかった。それが今生きて目の前にあり人々で賑わっていた。建物の亡霊に飲み込まれて夢を見ているのではないかと怖くなるくらいに。

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 高雄では旗後砲台という砲台を訪れたのだけど、ここも行ってみると「日本軍によって爆破された」とか書いてあって、かなり複雑な気持ちになる。いろんなところで過去の日本というものが観光名所という形で僕達に話しかけてくる。
 そして段々と、「日本の形」が分からなくなってくる。そういえば、北海道へ行った時も沖縄へ行った時もなんとなく「こんなに景色や背景の違うところまでシンプルに”日本”でいいのだろうか」と思った。もちろん国内として訪ねることができるのは便利でラッキーだけど、なんというかもっと別の名前の元に尊重されるべき生活がそこにはあるような気もした。韓国に行った時も、あまりに日本に似ているので、ここは本当に単なる”海外”としておくべきところなのだろうかと思った。
 国境という勝手に引かれたラインをファジーに捉え直すと、滑らかに繋がり、緩やかに変化していく文化圏としてのローカルが浮かんでくる。最近では「3万年前の台湾から与那国への航海を再現する」というプロジェクトがあるけれど、そういうものが象徴する「国家間の繋がりという国際」ではなく、ただの地域間の、あるいは移動する人々の間の繋がりというものが可視化されると世界の風通しがぐんと良くなる気がする。

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NEXUS5バッテリーマウント作成

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 まったくもってダサいのですが、NEXUS5のバッテリーマウントのようなものを作りました。
 僕はSIMフリーのNEXUS5を使っていて、古い所為もありバッテリーの持ちが良くない。バッテリーを交換しようかとも思ったのだけど、その程度の改善ではきっと旅行やなんかへ行った時にどっちにしてもモバイルバッテリーを使うことになります。
 そして、モバイルバッテリーは手に余る。

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 きっとこんな感じでスマートフォンとバッテリーをケーブルで繋いで、充電できるのはいいけれど扱いに困っている人はたくさんいると思います。
 無論、それを解決する為のグッズとしてバッテリー内蔵のスマートフォンケースなども出ていて、いくつかの機種に応じたものが販売されています。NEXUS5の為に作られたバッテリー内蔵ケースも売っているのですが、既に時代遅れの機種になったせいか、もうアマゾンでさっと良さそうなものが買えるというわけでもなかった。
 なので、薄いモバイルバッテリーを買って、それを保持する器具だけを3Dプリンタで作ることにしました。

  購入したのは、この薄型モバイルバッテリー。アマゾンで999円。2500mAhなので、内蔵バッテリーが2300mAhのNEXUS5を一回フルチャージできます。これを2つ。便利なことにmicroUSB端子は本体に付いています。 

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 このバッテリーがNEXUS5の背面に固定されるような器具の3DデータをFusion360で作ります。

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 そのデータをFabLab世田谷のFDM方式3Dプリンタ、AFINIA H480で出力。

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 このようにバッテリーを中へ収め、

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 あとはスライドさせてNEXUS5に取り付けます。

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 これでバッテリーとスマートフォンが一体化して扱うのが楽になります。ポケットにも無事に収まります。予備のバッテリーもあるので、かなりの酷使にも耐えうるはずです。
 格好は悪いですが。

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起こり、消えた全ての事象の漣

 同じ時期にすぐ近くの研究室で博士課程にいた友人が、学位を取った後4年ほどヨーロッパやアメリカへ行って、この春日本に戻ってきた。丸の内で久しぶりに会って話をしていると、彼女は僕が全く思いもしなかったことを教えてくれた。話の発端は、「正しい修復」という言葉だった。彼女は文化財修復の研究者で、色々な国に色々な流儀というか正しい修復の基準があって、特に日本は変わっている、というようなことを言った。「ちょっと待って、正しいも何も、修復って元に戻すことなわけだから、それが作られた新品の状態に近づけるのが”正しい”ということで、いくつも基準があるというのは理解できない」と、僕は話を遮った。
「ああ、そう思うんですね。それは違うんですよ」
「えっ?!」
「新品の状態にしちゃいけないんです」
「えっ?!」
「たとえば500年経ったものなら、500年経った状態にしておかなくてはいけないんです。私が今、このテーブルの上で何かの修復作業をしていて、ケチャップを溢して汚してしまったとするじゃないですか、その汚れはキレイに取ります。でもそうじゃないのは、どれを取り除いて、どれを残すかという判断が入ってきて、結局は人間の主観が入ります」
「ああ、そうか、その物に刻まれた歴史は取り除いてはいけないということだよね。ケチャップは取り除いていいけれど、それがナポレオンの血だったら取り除いてはいけないというか、ナポレオンが零したケチャップだったらそれも取っちゃ駄目かもだし」
 もちろん、500年前に作られた何かに、現代の修復家が間違えてケチャップをかけてしまったというのも、その物に刻まれた歴史の1ページではある。もしもその修復家が後に「歴史的な」大人物になればそれこそ。だが大抵の場合、それは「歴史」にカウントしないということだ。歴史を編むときの主観が、ハードエビデンスである物品の修復にも入って来るなんて思いもしなかった。過去というものは、僕達が思っているよりもずっとずっと恣意的なものなのだろう。
 
 網野善彦の本で「百姓というのは”普通の人”みたいな意味だったのに、ある論文で間違って”農民”としまったのが広まって、いつの間にか昔の日本人は農民ばかりだったという誤解が生じた」というのを昔読んだとき、とてもびっくりした。歴史のことは、というか過去のことは僕には分からない。専門家ではないから分からない、というわけでもなく、過去のことは本当は誰もに分からない。だから「網野史観を支持するのか」と言われたら、僕には判断する根拠も何もなく、特に支持するというわけではないが、網野さんの本を読んだときのスカッとした感じは今も結構はっきり覚えている。当たり前のことだけど、今も昔も色々な人がいて、世界も社会も複雑だ。
 あの時のスカッとした感覚は、白黒の世界からカラーの世界へ飛び出した開放感に似ている。
 小さな頃、テレビやなんかで見る「昔」は全部白黒の映像だったので、「昔は色がなくて暗い世界だった」と思っていた。もちろんそんな訳はなくて、大昔から空は青く、晴れた日は明るく、森は緑だったし花は鮮やかだった。着物には色と模様が染められ、彼女はゴーストではなくキュートな生身の女の子だった。
 
 複雑なものを複雑なまま扱うことは至難の業で、僕達は歴史のことも勝手にシンプルに整形して理解しようとするし、その土台にはあの忌々しい義務教育とかいうので叩きこまれたフォーマットが根を下ろしている。
 歴史という言葉を「人類のこれまで」と捉えるとすると、それは端的にこれまでの全てなので分かりようもなく、さらには分かったとしても情報が多すぎるので一人の人間には認識することができない。500年前あの場所で何とかという名前の男が魚を食べたとか、2000年前この場所で誰々が枝の先を削っていたとか、そういう「重大ではない」全ての営みについて一々構っていられない。
 だが、それらがこの世界でかつて起こったのは事実だ。
 重大ではない、それらの全ては現実に起こり、そして消えた。
 その些細なすべての物事の影響は、カオスの縁を乗り越えて今日に作用を及ぼしている。
  
 「歴史あるなんとか」という言葉使いがあるが、歴史のないものはこの世界に存在しない。今日、さっき、これまでの人類の営みとは全く関係を持たずに社会に到来したものなど存在しない。全ての物は「歴史的で伝統的」だ。わざわざ「歴史ある」とか「歴史的な」とか、あるいは「伝統的な」とかいう形容が用いられる時、そこには「私があなた方に認めて欲しい」という更なる形容が隠されている。
 
 伝統や歴史を重んじるのであれば、ゴミ箱に大量に放り込まれているペットボトルはサイエンスとエンジニアリングの伝統の奇跡的な結晶だ。無色透明で軽くて強靭で液体が漏れず極めて安価で大量生産が可能な超高性能な容器は、古代から脈々と続いてきた数学や化学や機械工学の粋であり数千年の歴史が生み出したものだ。
 
 伝統工芸の漆塗りとか焼き物とか祭りとか踊りとか着物とか、それが伝統だから大事だという主張は、だから変だ。「伝統だから大事」なのではなく、「私が大事にしたい伝統だから大事」という話で、つまり「大事にしたいから大事にしたい」ということでしかない。それは個人やある特定のグループの人達の望みだ。
 絶対に誤解されると思うので断っておくと、僕は「本当は特定の人達の望みや欲求にすぎないものを、伝統という言葉で正当化しているのが嫌だ」ということを言いたいわけではない。
 僕が嫌なのは「”私達はこうしたい”という主張が、”伝統的だから”という本質的には何の意味もないエクスキューズに包まないと主張しにくい」という風潮そのものだ。
 
 「私はこうしたい」「私達はこうしたい」という欲求や希望は、本当はとても重要なものだ。「今、ここにいる私が、こうしたい」は歴史とか伝統とかよりずっと大事なものだ。だけど、それをそのままストレートに主張することは何故か憚られる、「伝統を守る」「社会に貢献する」とかなんとか耳障りが良くて誰もがなんとなく納得する言葉を付け加えなくてはならない。プレゼンテーションの最後はいつも「社会を良くする」だ。
 漠然と伝統という言葉を使うのであれば「おじいさんも、お父さんもずっとやって来た”伝統的な”祭りだから僕もやりたい」という感じの主張は有り得る。けれど、フィーチャーされるべきは「伝統を守るため」ではなく、「僕もやりたい」であった方が「僕は嬉しい」。
 そうでないと息が詰まりそうだ。
 もっとも、僕達が生きているのは裸で出歩いたら逮捕されるという、既に冗談みたいなシステムの中なわけだけど。

 

日本の歴史をよみなおす (全) (ちくま学芸文庫)

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台湾旅行記1:台北巨蛋(台北ドーム)

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 もう季節が変わってしまったけれど、4月に1週間ほど台湾へ行っていた。成田から桃園国際空港へ飛んで、バスで台北まで行き、そのあと新幹線を含めた電車で台南、高雄と移動して、高雄国際空港から成田へ戻ってきた。
 訪ねてみる前から、台湾というのは、すでにとても身近な国だった。台湾人の友達も何人かいて話もそれなりには聞いていた。日本と台湾の間にある重たい歴史のことも少しは知っているつもりだった。
 実際の台湾は、僕が思っていたよりもずっと日本との関係が深く、そしてずっと素敵なところだった。
 旅の全容は既に記憶からどんどんと溢れていて、断片的に印象に残っていることを書いていきたい。

 

 台北は現代的な大都会で、眺めているだけで楽しい商業施設もたくさんある。南国の雰囲気と先進都市が理想に近い調和を生み出している。ただ、台北で最も驚いたのは突然現れた巨大な廃墟を目にしたときだ。
 僕達は、華山1914文創園区のFabCafe Taipeiなどを訪ねた後、今度は松山文創園区へ向かっていた。ちなみに華山1914文創園区は酒工場跡地をリノベーションして作られた「文化的な」施設で、松山文創園区はタバコ工場の跡地をリノベーションして作られた同様の施設だ。リノベはどこもかしこもアートとか文化とかそういった類のものになるので詰まらない気もするけれど、まあ豊かさとはそういうものなのかもしれない。どちらも今風にきれいにできている。この辺りのトレンドは日本と完全に同じだった。
 通りを歩いていると、突然ビルの影に巨大な廃墟のようなものが見えた。通りといっても、街外れの寂しい道路ではなく都会の中のストリートで、その廃墟は特別場違いに見えた。

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 廃墟ではなく、建造中の何かなのかとも思ったが、誰も作業をしている人はいなかった。一見、何も動いていない。そして鉄骨の材はすでに錆び付いている。これは一体なんだ? どうしてこんな街の真ん中にこういった巨大な廃墟があるんだと思って調べてみると、どうやらこれは「台北ドーム」と呼ばれるものらしいと分かった。20年ほど前から計画されていた台湾初の室内ドーム球場で、2016年の4月、つまり僕が訪ねているまさにこの時が完成予定だった。工事は2013年に着工して、2015年に頓挫している。頓挫というのは、正確には台北市から停止命令が出ていて、その原因は工事の杜撰さということだ。図面と施工が違う、建築基準法違反、周辺での地盤沈下や地下鉄トンネルの歪みなど。ドーム反対派のでっち上げだという話もあるようで、蚊帳の外からでは何が本当かは分からない。それにしても随分と大きな廃墟を台北市は抱え込んだことになる。

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 台北ドームの建造には日本の大林組も関わっているとどこかの記事には書かれていて、そういえば僕はこの廃墟を目にする直前、「大林組」と描かれた工事看板を見つけて「あっ、大林だ」と写真を1枚撮っていた。関係ないのかもしれないけれど。

 

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 このドームは2017年のユニバーシアード会場にもなる予定だった。

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 これから、このドームはどうなってしまうのだろうか。何かに利用するのはとても難しそうなので、きっと取り壊しになるのだろう。それにも莫大な費用が掛かる。
 完成することのなかったこの廃墟は、街角に重たい痕跡をめり込ませながら、それでも景色としては松山文創園区に溶け合っているようにも見えて、なくなればなくなったで寂しいような気もする。

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Quartier latin Iterum

 「小学生のときから、ずっと生きるのが面倒だと思っていて、夜寝るときにこのまま目が覚めなきゃいいのにと思ってる」
 彼女はとても綺麗な女の子だった。一見、人生には思い煩うことなど何もなく、ただ美しい世界で毎日を謳歌しているような女の子だった。彼女が、あれこれ面倒くさくて、怖くも痛くもないのであれば今すぐに死んでしまいたい、生きることは面倒の連続だから本当にもう消えてしまいたい、というようなことを言った時、僕は彼女が描いている絵のことを思い出した。
 ある人は僕が書いていた残酷な小説の感想を送ってくれた。彼は軽々しい今風の言葉使いで表現すれば「クリエイティブで世界を良くする」関連のことを推し進めている人だが、「こういうことでもやってないとこんな馬鹿みたいな世界で生きてられないですよ」と言った。
 オシャレな会社のデザイナーを務めるある友達は2,3ヶ月に一度「もう死にたい」とメールを送ってくる。
 
 何かを作ることについて。
 何かを作るのが楽しいからそれをしているとか、ただ好きだからそれをしているのではなく、それをしないと生きていけない人がいると思う。
 もちろん「No Music, No Life」みたいな威勢のいいキャッチコピーとは別の次元の話だ。
 「クリエイティブ!!!」とか「DIY!!!」とか「ものづくり系女子!!!」みたいな明るいポップな装飾は社会に流通する媒体向けの化粧でしかなく、何かを作る他に空虚感や面倒さや死の誘惑から目を逸らす術を持たない種類の人たちがいて、たぶん僕も人種としてはそこに含まれる。だから、あまり「エンジョイものづくり!!!」みたいなことにはコミットできない。
 また、恋愛の高揚感が空虚感を埋めてくれていた若い時期を越えると、「作る」が占めるウェイトは急激に大きくなってくる(ここには「育てる」「探求」が入る人もたくさんいるのかもしれない)。
 
 1999年の終わり「もう消費すら快楽じゃない彼女へ」というエッセイを、ネット黎明期に活躍した作家の田口ランディが書いた。21世紀における消費の価値が低いことは既に常識に組み込まれつつある。20世紀後半、先進国の人々に人生観や価値観を提供してきた「広告」がすでに消費を離れつつあるからだ。そしてインターネットはこれまで見えにくかったありとあらゆる種類の生き方と価値観をワンルームのベッドで「仕事の終わった今日」が終わってしまわないように、明日の「これから出勤」が来ないようにと無理して開いている瞳へ、スマートフォンの画面を通じブルーライトをベース周波数にして注入する。明日の朝、彼女はいつもの駅では降りないかもしれない。
 もうそれは消費では誤魔化せない。
 
 「ファブ」とか「DIY」というトレンドがもたらすものは「より良い世界」でも「イノベーション」でもない、それはたぶん「赦し」に似た開放だ。
 人間はお金の話が好きなので、どうしてもイノベーションという言葉に引きずられがちだが、イノベーションという言葉は社会に概念を流し込むための糖衣だと思う。”お金は社会の血液”とかいう、分かったような比喩に便乗すれば、血液に乗らなければ全身の細胞へは到達できないということだ。
 
 ファブというものに1年関わってきて、僕の中に生まれたのは驚くことに自分に対する赦しと寛容さだった。
 詰まらないゴミのようなものだって、別に作ったっていい。そういう許しだった。
 一昔前であれは、詰まらないゴミみたいなものをちょっと作ってみようかなと思っても、実際に制作するには多大なコストが掛かるので手を着けないことが多かった。今更改めて言うと、デジタル加工機器はそのハードルを本当に下げたので、今は詰まらないゴミみたいなものをさらっと本当に作ってしまうことが可能だ。
 「この程度のもの」と自分で思うものを作った場合、それを人に見せるのはとても恥ずかしい。愛想笑いで「いいですね」とでも言われれば消えてしまいたい気分になる。だけど、自分の中からそれが出てきたこと、少しでもそれを作りたいと思ったことは事実で、「この人はこれを作った人」という認識を相手に持たれたとしたらそれは端的に正しいレッテルでもある。そのレッテルが自分の一部であることは、自分で認めなくてはならない。制作は自己表現なんかではないが、にじみだしてしまった自己の一部であることは認めなくてはならない。
 
 「そんなゴミみたいなものを作ってどうするの」と人から言われそうなものを、躊躇いなく作れる環境のことをファブと呼びたい。
 世界を良くしなくてもお金にならなくてもいい。ゴミみたいなものでもいい。つまんなくてもいいし、自分以外の誰も欲しがる人がいなくてもいい。
 作る。死なないために。絶望しないために。
 まるで暗い話みたいだけれど、誰かが絶望しないために作ったものが「なにこれ!?」って大笑いするしかないタヌキの箸置きだったりして、僕達は暗闇と光の調和を知る。
 「世界にはこんなにすでに要らないものが溢れているのに、さらに3Dプリンターでゴミを作ってどうするんですか? それってエコじゃないですよね。っていうかエゴですよね。あっ上手いこと言っちゃった」みたいなことを言われたら、中指でも突き立ててやればいい。
 どうしてもイノベーションという言葉を使うのであれば、ゴミみたいなものを人々が堂々と簡単に作れる社会の到来そのものがイノベーションなのだ。
 もちろん、イノベーションという言葉を使うときには一度中指を突き立てることを忘れてはいけないわけだけど。
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連載小説「グッド・バイ(完結編)」26

(注)この連載についての説明は第一回目の冒頭にあります。
   第13回目までは太宰治が書いたものです。

・困惑(三)

 例のぬらつく部屋に、田島は悲壮な顔で上がった。ああどうか金毘羅様、ここにあって下さい。さもなくば僕はもう生きれません。信心なんてなんのその、カミもホトケもあったものか、傲岸不遜、冗談で貼りつけた金毘羅の御札に今頃お願いしている。
 でも、どこを見たって、ない。
「押し入れの中も、見せてもらう。」
「押し入れは、見るだけよ。指の一本触れたら、許しません。」
 左手で、さすがの田島もあの高貴を思い出し、そろりと開ける。シンデレラの楽屋は今日も綺羅びやか。でも、狭い部屋の、狭い押し入れ、一目でここにもない。
「もう、見たでしょ。部屋の中をジロジロ見られて気色が悪いわ。あなたのものなんてケチ臭くて下駄の片方も取りはしないわよ。」
 キヌ子は、潔白。へなへなと、田島は腰が砕けて、黒光りの魚臭い畳にしゃがんだ。田島はようやくガーゼを当てがって、案外上手に、口でクルクルと包帯を巻いた。ああ金毘羅様はちゃんと祀るべきであった。
「じゃあ、一万、ちゃんと頂戴。そんなに落ち込んだみたいな顔したって、貰うものは貰う。」
「お金は、ない。」
「だめよ、そんな嘘。お出し。」
「本当にないです。全部入った金庫が盗まれた。」
「あら、さっき上がって金庫がなければ出すって言ったけれど。」
「あれは方便だ。」
「うわあ、平気で嘘ついた。だからあなたなんて誰からも信頼されないのよ。」
「あのね、君ね、ちょっと僕は今それどころじゃあないのだけれど、その、お金が全部取られたのですけれど、あなたもお金の苦労は分かるはずだ。」
「また話を誤魔化して。あなたのお金が取られても知りません。だいたい金庫に入れて部屋になんて馬鹿みたい。」
「じゃあ、君はどこへ。」
「それを言っちゃあお終いじゃないの。」
 キヌ子はクツクツと笑った。
 そして、「探偵でもやとえばどうかしら。高いけれど。」
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連載小説「グッド・バイ(完結編)」25

(注)この連載についての説明は第一回目の冒頭にあります。
   第13回目までは太宰治が書いたものです。


・困惑(二)

 キヌ子は包帯とガーゼを取ってきて、田島に渡した。もちろん、差し出さるるは右手。
「2000円に負けてあげるわ。」
「高すぎる、そんな人をバカにした値段。僕は怪我人だぞ。それも君のせいで。」
「じゃあ、いらないのね。」
「もらいます。」
 田島はケガが苦手。手が痛くてすっかり弱気。
「軟膏もあるけれど、ガマの油とか、もう2000円でどう。」
「えーい、それももらう、この冷血人間。」
「あら、あなたの方こそ、なんだか変に頭に血が上って。冷血の方がずっといいわ。」
「それよりも、ちょっと部屋に上がって、包帯巻いてくれませんか。」
 キヌ子が入れてくれないので、田島はまだドアの外。
「駄目よ。」
「駄目とはなんだ、怪我人に対して失礼じゃないか。包帯も自分じゃ巻けないし。僕は右利きだ。」
 お金も盗まれて、手も痛くて、もう言っていることがおかしい。
「包帯なんか犬でも口で巻くわよ。押しかけて来たくせに。」
 待てよ。部屋に入れないなんて。ますます怪しい。
「いや、部屋にはあがらせてもらう。断じて。これは、事件の捜査だ。」
「変な言いがかりつけて上がり込もうなんて、そうは行かないわ。上がりたいなら1万お出し。」
 こんな汚い部屋に上がるのに1万。ネギ1本でも買うほうがまし。しかし田島、追い込まれていて必死だった。
「よし、じゃあ、上がって何も無ければ1万払ってやる。もしも、金庫があったら、見てろ。」
「じゃあ、どうぞ。私も、あなたみたいな大根頭に言いがかり付けられたままじゃあ、うす気味悪くって昼寝もできないし」
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