連載小説「グッド・バイ(完結編)」22


(注)この連載についての説明は第一回目の冒頭にあります。
   第13回目までは太宰治が書いたものです。


・迷走(三)

 ないわけない。田島は浮ついたまま金庫を探した。いやいや、よく見ればその辺に転がっていて、なあに見逃しているだけさ。自分に言い聞かせるも、もう胃袋は飛び出しそう。あたり構わずひっくり返す。ネズミの干からびて死んでいた場所もなんのその。ひょうたん、人形の首。大鍋小鍋。田島の部屋が散らかっているのには、一つだけそれらしい理由もあった。田島は闇屋で稼いだお金、全部金庫へ入れて、それをこのアパートへ隠していたのだが、まさかの泥棒が入った時に簡単に金庫が見つからぬようにわざと部屋を滅茶苦茶にしていた。さらに金庫は金庫に見えぬよう、見窄らしい油塗れのドロドロの赤茶けた布に包み、それをまたこれも見窄らしい半分朽ちたような木箱に入れて釘を打って蓋をして、最後のまじないに「教科書とノート。我が学業に励みし日々の記録ナリ。大事に取っておくべし。厳重の保管怠れば直ちに金毘羅様の天罰が下るであろう。」と筆で書きなぐった紙と、どこかでもらった虎ノ門の金毘羅さんの御札を貼り付けてあった。こんな貧乏臭いアパートの不潔にあれこれが散らかっている部屋の中で、誰がこんなケッタイな箱を開けて盗んでやろうなんて。自分でも手袋をしないと、嫌だ。
 でも、どこを見ても箱はない。三尺四方の箱が、この狭い部屋の中でこれだけ探して見当たらないというと、もう、ここにはない。
 と、とりあえず、け、警察。か? いや、いかんいかん。あんな大金。知られたら。
 しかし、田島一人でどうする。
 相談相手は、結局永井キヌ子の他ない。ネズミは自分で頑張ったが、今度は強欲女史に頼むしかないだろうか。だたの無教養の怪力が、泥棒事件の解決に役立つとも思えなかったが、もう田島は本当に心細い。
 いや、はて、ちょっと待て。
 キヌ子は田島がうんとお金を溜め込んでいることを知っているし、住所なんて電話帳で調べれば。
 そしてあの怪力。
 田島は部屋を飛び出した、と思ったらすぐに戻ってくる。服を、着替えるみたい。こんな有事に際しても掃除の着の身着のままでは外に出れない模様。

連載小説「グッド・バイ(完結編)」21

(注)この連載についての説明は第一回目の冒頭にあります。
   第13回目までは太宰治が書いたものです。


・迷走(二)

 田島は「オベリスク」の仕事にここ数日精を出している。闇屋からはもう足を洗う。そう決めた。お金はもう十分。闇はもうたくさん。これからは真っ当な誰にも胸をはれる仕事をしよう。良く良く見てみれば「オベリスク」なかなか田島好みのおしゃれな雑誌。だいたい、誰でも雑誌の編集長になれるというわけではない。ここは僕が引き受けます。ええ東京に、いや日本に、広く伝えねばならないカルチャーがあるのです。僕は、それに身を費やす。見ていてください。
 珍しく、いやはじめてアパートの掃除もしている。酒は飲まぬ。出歩かぬ。きちんと生活の礎を築く。生活の一歩は住まいの整理整頓と清潔なりや。かつて、かのゲーテもそんなことを言っています。おっと、思わず一人で、自分に嘘を言っている。本当はもう駄目かもしれない。すみません、僕は本物の嘘つきです。はあ、と大袈裟なため息をついてから、気をとりなおしてガラクタを次々と放り出す。ひょうたん、割れた電気の傘、読めないドイツ語の本、日本人形の首。この寝るだけの部屋に、覚えのないものがよくもまあこんなに。誰か勝手に上がり込んでいるんではないかと思えるくらい。パリンパリンに乾いた招き猫の手ぬぐい、膝の破れた股引、それからこれは。うひゃあ、乾いたネズミの死骸。田島はネズミが苦手。死んでいる生き物も苦手。ああ掃除なんてするんではなかった。でも、もう後戻りは出来ぬぞ、おキヌ。とっさに浮かんだのはキヌ子。あのヌラヌラの不潔極まりない部屋に平気で住む怪力のキヌ子であれば、きっとネズミの一匹や二匹なんでもない。電話して、来てもらおうかな。いやいや、とんでもない。そんなことを頼んだらいくら払わされるか。それに色男のメンツにも関わる。くー、誠にこのネズミどうしたろうかしらん。ど、どこかに火バサミ、火バサミあったはず。隅っこしかないような狭苦しい部屋の隅っこにまだ出しっぱなしの火鉢があり、そこへ乱暴に突き刺したままの火バサミを抜き取り、田島は干からびたネズミをなるべく見ないようにしながら火バサミを近づける。しかし、このネズミの大きさ。これ、本当にネズミでっしゃろか。どこ摘んだろうかしら。火バサミがネズミの尻尾に触れた。ああーこの手応え。まさに今、間接的に、触れている。ううう。田島は思わず変な声を出しているが気づいていない。尻尾を摘み上げた。
 が、摘んで果たしてどうする。駄目だ、持っていく先がない。火バサミを持った右手がもうガタガタと震えている。無計画は身を滅ぼすと、ゲーテも。いやそんなことを言っている場合ではない。あ、そう。埃がこもらないように窓が開いている。田島は窓の外にネズミを放り投げた。往来に人があれど、仕方なし。他に手立てがありません。緊急の行為。きっと許される。
 震えの収まらぬまま、田島は部屋の真ん中へ戻り、ネズミの死んでいた辺りを遠巻きにして清掃を再開した。そして極めて奇妙な、かつ重大なことに気が付いた。
 金庫が、ない。

連載小説「グッド・バイ(完結編)」20

(注)この連載についての説明は第一回目の冒頭にあります。
   第13回目までは太宰治が書いたものです。

・迷走(一)
 参宮橋から代々木方面へ、通りを男が歩いている。早い春の夕方、風も冷たく通りを歩く人達の外套もまだ見目重い。黒に焦げ茶色に、カーキ。丸めた背中やすくめた首が、街灯も増えてきたといえ、街並みをどんよりさせている。そんな中、この男だけは、随分薄手の、さわやか藍色のコート。見ればそこそこの好男子。背もまっすぐに正面向いて、颯爽歩いている。溌剌の男子とはまさに彼のことだろうか。
 いや、そんなわけない。なぜなら、この男、田島。本当は分厚いコートが着たかった。寒い。鳥肌が出る。我慢して春先取りの軽装。オシャレだと、思いたい。鳥肌がばれてやしないか、ビクビクとして、いやビクビクとしてるのは凍えてるのか、よく見れば顔色も青白いし、あっ、蹴躓いた。
 田島は戸崎さんのうちへ向かう途中であったが、歩いているうちに面倒になってきた。この道も、戸崎さんに知り合って最初のうちは心綺羅びやかに歩いたものだ。それがいつの頃か、段々と歩くのが面倒臭くなって来た。今日は特別に足が重たい。キヌ子は連れていない。田島一人。回りくどい演技は卑怯で失礼だと今更ながら思ったから? なあにそんなわけない。この間、田島はキヌ子にコテンパンに言われ、そして落ち込んだのだ。腫れ物には触らぬ。臭いものには蓋と錘と閂。が信条の田島はキヌ子にはしばらく近寄れぬ。いつの間にかキヌ子が少し怖い。こき使ってやろうと思っていたのがいつの間にか打ちのめされている。強欲女史のおっしゃることは地に足が着いていて、田島のどこかで聞きかじった話とは違っていた。田島の話は伝聞。薄っぺら。嘘。ただでさえ最近は虚しい気持ちがしていたのに、キヌ子に突かれてもうボロボロ。
「やあ、少しご無沙汰ぶりです」
 おかしな挨拶をして田島は戸崎さんの家に上がり込む。
「お茶を淹れてきますわね」
「ええ、どうもそれは助かります。外はまだ寒いですから」
「そんな格好ではさぞかし寒かったのでしょうね、少しお顔も真っ青で」
 しまった。
「まあ暖かくも、なって来てはいます」
 戸崎さんは唐草のような模様の付いたティーカップにお茶を用意してくれて、
「近いうち、海へ行きたいですわ。私どうせ泳げやしませんから、寒くても静かな海の方があうの」
 田島も泳げなかったが「そうですか、寒い海もきれいなものです」とだけ。
 何も、今日言わなくてもいいではないか。綺麗な海を2人で見て、またその後ででも。
 やっぱり、キヌ子がいないとダメかもしれない。

連載小説「グッド・バイ(完結編)」19

(注)この連載についての説明は第一回目の冒頭にあります。
   第13回目までは太宰治が書いたものです。

・ 誘惑(四)

「あのですね、えっと、君ね、人間には心がないと言うんですか。」
 田島はややギクシャクとして聞いた。キヌ子と話なんてしても、これは完全に無駄、無駄無駄。時々もっともらしいことを言うし、考えてみればあの稼ぎっぷり、実は只者ではないかもしれないなんて、ああ買いかぶった。この女、人の心も知らない、ただの強欲。見よ、このトンカツの食べ方を。
「あるんだか、ないんだか、そんなもの私、知りやしません。どこにも見たことないし。だいたい、そんなのあってもなくても、同じじゃないの。」
「同じじゃない。君、人のことを可哀想とか、同情とか、そういうのないのかね。」
「ないわ。」
 きっぱり。
「えっと、質問を変えて、あのね自分の心も、それもないというの。」
「だから、あるもなにも、私、心なんてどれだか分かりやしないし、あるのないの聞くなら、どんなものか説明してからにしてくれない。」
「説明なんて、心がどんなものかは、誰だって知っていることで。」
「知らないから、説明して。」
「それはだね、えっと心はね。あれだよ悲しいとか、嬉しいとか色々あるでしょう、いくらお金を数えるだけのあなたでも。」
「それは悲しい事も、嬉しい事もあるわ、それが心ですの。」
「それを感じている君の方の、その、それが心。」
「何言ってるのか分からないわ、やっぱり馬鹿ねえ、あなた。」
「馬鹿は君の方だよ、君。デカルトという偉いフランスの哲学者がコギト・エルゴ・スムと言って、心はあると言ってるのも、君は学問がないから知らないだろうけど。」
「へっ?なに?乞食とオナゴ娘?」
 田島はもう情けない。ウイスキーをクっと飲んで、ピーナッツのつもりで誤ってうどんを食べた。
「違う、コギト・エルゴ・スム。ラテン語で、我思う故に我ありという意味だ。」
「あら、嫌だわ、外国の言葉、私知らないのに、どうして外国語で喋ったのかしら、間違えたの?」
「違う。こういうのは外国語で言うことになっててね。学問のある人間同士は外国語で通じるから。」
「私に学問があると思ってたのね、まあ、あなたみたいに馬鹿ではないけれど。」
「まさか、君に学問なんて、からっきし、あるもんか。」
「じゃあ、どうして外国の言葉なんて。」
「もう、それは兎に角としてだね、我思う故に我あり、これは、この日本語は、キミ分かる?」
「分かるわ、我思う故に我あり。プッ、意味ない。偉い人が、本当にこんなこと言うかしら。」
「キミはちゃんと分かってないから。これは、世界の真実を見出すために、世界の全てを疑いに疑い抜いたとして、でも、それでも全てを疑っているこの自分自身の存在は確かだし疑い得ない、というだね、哲学上画期的な発見だぜ。」
「何故疑うの、はなっから疑わなければいいのに、バカな人。」

連載小説「グッド・バイ(完結編)」18

(注)この連載についての説明は第一回目の冒頭にあります。
   第13回目までは太宰治が書いたものです。



・誘惑(三)

 イヒヒヒ、これはお金も掛からないし、上玉。と田島は思い、その後、戸崎さんと進んで懇意になった。戸崎さんは、田島が文士先生連中から仕入れてきた出鱈目の、嘘とも本当とも確かめようのないような、いかにもインテリジェンスを気取った話とユーモアにどっぷり。
 それがしかし、この頃からだ。田島はなんとなく虚ろであった。戸崎さんと楽しく過ごして、それが一体なんであろう。楽しいということには、それ自体実は価値がない。ハピネスの表層としてジョイが浮かんでくることはあれど、ジョイの獲得はハピネスの実現ではない。戸崎さんとの関係には、ジョイはあれどハピネスはなかった。戸崎さんだけではない。田島、遊び歩いているが、それはハピネスとどうにも呼べない代物ばかりである。そして、楽しいのに退屈。ああ永遠に酔っ払っていたい。

「ほんとうに、もう薄汚れのカボチャみたいなみみっちい男ね、あなた。」
 田島、ついにまたキヌ子を呼んで、話を、いやもうこれは相談、相談をした。食堂で、この女、また大食らって、それも田島のお金なのに田島を哀れんで馬鹿にする。
「なにがみみっちいものか、君、失礼だぞ。僕はようやく人生の意味について考えだしたんじゃないか、享楽の時代を終えて。これは断じて崇高なことだ。」
「何が崇高よ、女遊びに飽きて来て、他に何の取り柄もないだけじゃないの」
 クー、鴉声なんかに相談するんじゃなかった。とは言え、キヌ子以外に相談したい相手もない。表向きの商売が雑誌である関係、田島には人生のことをいつもそれらしく書いている文士の知り合いもたくさんいた。古今東西の文学を知り、哲学を仏語や独語で読んでいる人間も、幾人知っている。しかし、誰の顔を浮かべても、それはただのしたり顔。どれもこれも、本当の話はできそうもない。でも、キヌ子は本当にあの連中よりマシかしら。あー、誰も、苦悩を分かってくれぬ。もういっそうのこと出家でもしたろうかしらん。いや坊主は嫌だ嫌だ。
「そんなことより、女の人はもうみんな別れたの? また付いて回ってあげるわよ。1日1万円くれたら。」
「何を言う。5千円の約束だ。」
「私も最近、かつぎの方が忙しいの、そんな5千円なんてケチなお金では駄目もダメよ。それか、あと何人か知らないけれど、もう今からでもパーッとみんな回ってしまって、人数分のお金頂戴。」
「なんて軽々しいことを言うんだ君、いいかい、別離して周るんだから、餅屋で餅を買うのとはワケが違う。一日に、いや一週間に一人が限度だ。」
「そうグズグズしているのが、あなた駄目なのよ。もう今日パーッと回って、パーッと払ってくれれば、そしたら私も儲かるし。」
「人間の、心の話をしてるんだぞ。君はカネの話しかしないのかね」
「いつも、詰まんないダジャレね。」
「ダジャレじゃない、そっちこそ、いつもお金お金」
「当たり前じゃないの、世の中お金以外何の話があるって、一体。」
「何とは悲しい人だ。精神とか、心とか、今も僕は心の話をしてるじゃないか。」
「心、そんな見たこともないもの知らないわよ。そんなもの、ありません。」
 田島、驚愕。

連載小説「グッド・バイ(完結編)」17

(注)この連載についての説明は第一回目の冒頭にあります。
   第13回目までは太宰治が書いたものです。



・誘惑(二)

 耐えた。よし。快勝。バンザイ。田島は、涼しい美人の酒場を、無事あとにした。これが、真人間の生き方だ。妻も、子も、父がこんな精神の努力をしたとは知らないで、田舎の家で生活をしているだろう。父は、立派に、誘惑を負かしました。安心して下さい。宣伝したいくらいの気持ちになっている。
 それにしても、もし。田島は、まだグズグズと考えていた。あの女の人に、ちょっと一言掛けていたら。女たらしの遊び人、ではない。田島は、ウツボなりに真剣であった。まだ、胸中脈々とすらしている。一目惚れ、ではない。田島が思うのは、袖触れ合うも他生の縁。今の、涼しい人に、ここですれ違ったのも、これも何かの縁だったのかもしれない。話せば人生が違っていた、かもしれない。ご縁はきっと大切です。こっちが、本当は真人間の道だったかもしれないのだ。もう、二度と会うことはない。さっきのが、何億分の一の、奇跡の確率。我、ついに奇跡を体験するも、気付かず逃した。間抜け。君は、永遠を知っているか。永遠はただ形而上の、人間の生活に無縁の概念と違います。あの人には、もう永遠に、会えない。
 田島はいつも、その永遠の重みに耐えることができなかった。そこで、ついつい声を掛ける。

 しかし、今回はこれで良かったのだ。良かった。戸崎サチヨとだって、大体そのようにして、やや怪訝な雰囲気のままずるずると、情が深まるに任せて身動きが取れなくなったのではなかったか。
 戸崎さんは、田島が付くまでもなく、財産のある人だった。別段大きくはないものの、一家族が暮らすには十分な家を代々木に持っていて、そこに手伝い一人雇って暮らしていた。財産のことを、根掘り葉掘り聞けるものでもないので、詳しいことは知らないままだが、亡くなったご主人が、戦争でしこたま儲けて残してくれたそう。世の中には、戦争で、あんな人殺しなんかで、お金をしこたま儲ける人もあるのだ。「そんなお金で、立派なお家を東京の山の手に構え、お手伝いまで雇って、どんな素敵な心持ちの暮らしでしょうかね。」なんて、はじめてカウンターで隣に座った時、田島は冗談のつもりで言ったら、もう戸崎さんの打ちのめされること。
「すみません。どうも、酔いがまわりすぎているみたいで。」
「いえ、構いませんの、本当のことですから。お酒は、人を正直にすると言います。」
「そんな。それじゃ、まるで僕が意地の悪い人間みたいじゃないですか。本音だなんて。さっきのは、まったく只の冗談。でも。ええ、正直に言いましょう。あなたを困らせるための冗談でした。」
「あら、困らせるだなんて、酷い人ですね。」
 田島は、酷い人という形容に相応しい男だが、口が上手。
「どうして、僕が、あなたを妬ましいと思ったからです。本当に。こんなにお綺麗で、お金もうんとあって。」
「あら、綺麗だなんて、困った人ですわね。」
「きれいで、何が困りますか。僕は今こそ正直です。」
「正直は、私の方ですわ。お金の話なんて人にするものではありません。特別、言いました。」
 二人、最初から気にいって、ジャレていただけのこと。

連載小説「グッド・バイ(完結編)」16

(注)この連載についての説明は第一回目の冒頭にあります。
   第13回目までは太宰治が書いたものです。

・誘惑(一)

 作戦が、良くなかった。初老文士の冗談を、意外に名案なんて藁に縋ったのが悪かった。馬鹿。涙は、もうたくさん。サヨナラは、もうたくさん。田島はキヌ子を連れて、愛人と別れ歩くのを、ここ十日やめにしている。あちこち遊び歩くくせ、感傷的で、一人、大事そうに悲しい気持ちを抱えて、本人は至って真剣な悩み具合。離別は、言うも、言われるも、同じ苦しみ。なあんて立派らしく、頭を抱えている。そして、どうせ行き着く先は、また泥酔の酔っぱらい。傷心を、隠そうにも隠しきれぬ、まるでどうしようもなく滲み出したふりを装ってキザな演技。こんなに傷ついていては、もう仕方ない。どうにでもしてやれ。何か間違いをしても、辛さ故。辛さで、どうかしていました。冷静な、普段通りの理知を、つい忘れてしまって。きっと許される。許して、下さい。
 田島にかかれば、傷心もエクスキューズ。体の良い言い訳。それを罠にして、まるで獲物を待つヘビ。あるいはウツボ。頭の中はウツボでも、田島はちょっとした好男子であった。雨に打たれた、善良な犬の無垢さで、背中が語る。それを気にして、ちょっとでも目を合わせようものなら、このウツボ、噛み付いて離さない。もちろん、美人のみ。
 あっ、田島好みの、涼しい美人が笑いかける。
 いや、いけない。もう、全てやめにするのだ。女房と、我が子のことを想え。田舎から、この東京へ呼び寄せて、一家の大黒柱、仕事の帰りにケーキでも買って帰れば、その喜ぶ顔のどんなに輝かしかろう。正真正銘の、父になります。あの決心はどうした。ただでさえ、残る愛人との離別が、目も背けたく横たわっているというのに。
 涼しい美人が、また、こっちをチラリ。
 田島、どうしても気になって落ち着かない。この人は、きっと、僕を好いている。自惚れ。自信家? 馬鹿? しかし、長年の女遊びの効用、田島はどんな女の人が自分を好きになるか、直感で判別する能力を体得していた(おそろしや)。無駄な、恥はかかない。その辺、並々ならぬ虚栄心が、感覚を研ぎ澄ませる。田島はプレイボーイの風で、女の人に断られると三日寝込む。三日間、あの人は、田島を良く思わなかったのではなく、田島に惹かれたけれど、ぐっと堪えたのだ。良人に、契堅く結んだ、誠実な人だったのだ。そういうことだったのだ。はなはだ都合良く、自分を慰めて、ようやく立ち上がり、また酒を飲みに歩く。
 田島は本当は、酒がマズイ。嫌い。だから家では一滴も飲まなかった。あんなものを飲むなら、水か、それとも出がらしのコーヒーでも。田島が、出歩いて酒を飲むのは、酒の席以外に人と話す手だてを知らなかったから。酔っ払うまで、まずいのを我慢。だから、ゴクゴクと飲みっぷりは男前。ちょっと、可哀想かもしれない。